魔道ねこの目線

気になること、面白そうなこと、独断的考察などなど、思いつくままに書いてます ( ̄▽ ̄)

君の名は…?(無意識には、それじたいの論理がある)


ハンドル、ペンネーム、ニックネーム…自分で自分に別の名前をつける時、ひとは、どんな理由でその名前を選ぶのでしょうか?

全くのゼロから、錬金術のようにオリジナルな名前を生みだすひともいるかもしれません。
でも、大多数のひと達は、既に存在する名前をどこかから選んでくるのではないでしょうか…?

どこか、は、リアルの自分に関係しているもの…リアでのニックネームだったり、ヒイキのアーティストの名前や通称、ブログの内容次第では、職業がわかるものだったりするかもしれません。

リアルの自分とは全く無関係な、好きな本や映画の登場人物や、アニメのキャラクターというパターンもよくあります。

錬金術型以外のタイプは、その名前がすでにもっている既成概念から、そのブログを書いているひと、書き手の性格や主張をイメージしやすいというメリットがありますよね?


たとえば、「ヨッシー」という名前のひとが書いているブログに目をとめたとします。

リアの友人ヨッシーのイメージを内包したままそれを読んで、「ヨッシーって面白い奴が多いよね」とか、「自分が知ってるヨッシーとはぜんぜん違うなぁ」などと、無意識に比較してしまったりしたことがありませんか?

ブログタイトルが『正義の味方ヨッシーのお助けブログ』なんかだったりすると、「リアルの友達ヨッシー+助けてくれる正義の味方」の両者が合体して、そんな理由で知らない相手に親近感がわいて、メールで個人的な相談をしてしまったり…なんてことにも?


【念のためにお断りしておきます】

ここに出てくるのは「架空のヨッシー」であって、同様にもしも「正義の味方ヨッシーのお助けブログ」が実在した場合も、このブログの内容とは完全なる無関係ですので、あしからずご了承くださいm(__)m


キャラクターだと、たとえば「のび太」か「綾波レイ」か「しんちゃん」か、あるいは「アラゴルン」か「ガンダルフ」か「R2D2」か「R.ダニール」であるかで、出典がわかれば自動的にキャラのイメージもわいてしまいます。

これらは 某サイトで実際に見かけたニックネームですが、「のび太綾波レイ、しんちゃん」だと、一緒にアプリをやるにしても、あんまり強力な仲間になりそうにないイメージがありませんか?

つまり、「のび太」という名前を選んだユーザーが、その名前を選ぶことで、「僕はガツガツやらないからね。仲間に選ぶならそのつもりでテキトーによろしく」というメッセージをこめている可能性は、決して低くないと考えられます。

意識的にそうしている場合もありますが、無意識でも同じことだし、のび太を仲間に選んだあなたの選択にも同じことが言えます。ネーミングとは、そのくらい色々と含みがあるものなのです。


このネーミングの際に、リアの関連情報から選ぶか、架空の存在の中から選ぶのかは、既にこの時点で、ブログに何を書いてゆくのかを大きく左右してしまいます。

ニックネームの頭に職業をつけた、弁護士や会計士、司法書士***のブログというのをよく見かけます。

こちらは職業的見地からの専門的な意見や、日々の仕事内容が克明に綴られていたりするのでまた別物なんですが、普通はブログにリアル情報をどこまで容れるのかは、そのブログを書いてゆく上での今後を大きく左右する問題です。

初めにこの辺りまで、と、ラインを引いておいても、どんな内容を書くのかの選択が無意識に任されているなら、あらかじめ設定したラインは、書いてゆくうちにズレたり動いたりするものです。

外部リンク等から、他のSNSの仲間や友人、リアルの友人知人がブログを読んでくれることを期待するなら、ニックネームの統一だとか、書く内容にも注意を払わなければなりません。

不特定多数むきに書いている文章の場合、予想外の繋がりが原因で、別の場所での仲間や友人との付き合いに支障をきたすこともあるし、写真やブログ内のエピソードから、個人を特定されてしまう危険もあります。

知ってるひとから「**さんじゃない?」と言われるのは歓迎しても、苦手なひとや嫌いなひと、ストーカー気質の知人が相手では困ってしまいますよね?

リアとは無関係な相手なら、ブロックしておしまいですが、苦手だからといって、リアで顔を合わすような相手をブロックするしてしまうと、また別の問題に発展してしまうケースもあります。

昨今ではSNSのみの付き合いであっても、ブロックしたら、された相手が逆上してトラブルになったり、別の場所でブロックしている相手が、正体を偽って近づいてきている場合もあるので、油断は出来ません∑(゚Д゚)

ありがちなトラブルを例に挙げると、仲間の協力が必要なSNSのゲームなどで、リアの友人知人や職場の仲間と繋がっている場合に多いのが、まさか相手が読んでいるとは思わずに、うっかりブログに職場や友人の噂ばなしや愚痴などを書いてしまって、関係がこじれてしまうケースです。

錬金術型のニックネームを使うユーザーは、こうした経験をしているか、SNSでまで面倒な付き合いをしたくない、というひとが過半数にのぼるだろうと考えられます。


マイナスばかり挙げてしまいましたが、勿論リア繋がりには、いい面だってあります。

投稿記事への反応が早いとか、コメントやいいね等をもらいやすいとか、相互フォローしあって固定読者を増やしたり、読者やコメが多いことで無関係なユーザーへの好感度アピールに繋がるなどです。


一方、友人が読んでも気づかないようなキャラとニックネームで、せっせとブログを書いたり、アバターやゲームに課金するひと達もいます。

私はこちら側ですが、これはどちらがいいとか悪いとかいう話ではありません。

このくらい書けば、自分がどちらのタイプであるか、それによってブログで書く内容が、意識と無意識の両方で左右される理由にも見当がつくのではないでしょうか。


リアと無関係なニックネームを使って、リアで個人を特定されないようなブログを書く場合も、記事の内容はわりと特定されます。

でないと、ごく日常的なエピソードなどを頻繁に書いてしまったら、一度や二度なら偶然で片付けて、「似たような経験しているひともいるなぁ」で済んでも、回数が重なれば「私よ!私。誰だかわかるでしょ」と言っているのも同じことになるからです。

また多くの場合、「一度でアレ?」と思われる確率は非常に高いのです。何故なら「面白いエピソードの大半は、その人のキャラや語りくちに依存している」ため、部分的に事実を伏せたり脚色すると、面白さが半減してしまうのです。

だからと言って、オモシロ話をそのまま書いてしまうと、面白い話ほど他人は細部まで記憶していたりするので、「アレ?これって書いてるのあのひとなんじゃ…」という事態に陥るわけですね。

友人に正体がバレるくらいは平気、と思うかもしれませんが、ひとりにバレたら他でもバレる覚悟は必要だし、その場合、「バレてもOKな仲間にだけバレる」とは限りません。

難癖つけたり、嫌がらせみたいな書き込みをするようなヤツだったり、細部まで熟読してアレコレ追及してくるような、「リアでも対処に困るような相手に知られる」確率のほうが、往々にして高いと考慮しておくべきです。


そんなわけで、安全な時事ネタや政治関連の記事が多くなる(笑)とか、ハウツー本みたいな内容のもの、料理やスイーツなど、趣味のテクニック部分をメインにしたブログ書くひとが多くなる傾向にあるようです。

他にも「のび太」な気分で別人になりきるのを楽しんだり、文字によるコスプレで「綾波レイ」や「しんちゃん」になりきる、というひともいるでしょう。

アニメならともかく、綾波レイやしんちゃんは、リアで付き合うには、相当に難しい相手ですから。
でも、そのニックネームで、そのキャラならば許される…のではないでしょうか?


もっとも、キャラを演じるなら演じるで、中途半端だと痛いコスプレもどきだし、綾波レイが途中で別人になったり、しんちゃんがおねいさんに全く反応しないのもヤバいとか、結局はここでも色々と縛られてしまうのですがw

それでも、日々ニュースのチェックが必要な、時事ネタや政治関連の記事を書き続けるとか、ひたすらハウツーものをまとめるよりは自由だし、固定ファンもつきやすいかも?

どんなブログにもファンはつくだろうけど、固定ファンや読者の期待に応え続けるのは大変です。

なによりも、自分のテンションを保ち続けるのが一番キツいし、人気のブロガーになって、ランキングだのアフィリエイトだのに関わるには、相当な根気とある種の才能が不可欠です。

つまり、なんでもそうだけど向き不向きがあるわけで、ひとつ言えるのは、どんな名前を選んでも、途中で変えたりしない限り、自分が選んだ名前や、それに付随する情報に縛られるということです。

リア情報を多用している場合は当然そうなるし、仮にアラゴルンという名前を選んだら、アラゴルンへの思い入れや知識や情報に縛られて、その名前でクレヨンしんちゃんみたいなキャラを演じたりはできない、ということなのです。(なかには例外もいるかもしれませんがw)


このネーミングを意識的にやるか、無意識の内なる声に導かれてやるのか…この辺りは性格にも大きく左右されそうです。

前者は緻密で論理的、後者は感覚的で自由奔放な選択なのですが、こう書くと、ここでも「緻密で論理的なほうがカッコよさげじゃない?」とか、実際に緻密で論理的なタイプ(理屈っぽい堅物クン)が、「感覚的で自由奔放な自分」を演じてみたくて天邪鬼なことをする…みたいな人たちも現れるんですよねw

無意識の選択は、いつでも必ずしも正しいとは言いきれないけれど、正しいか正しくないかとは別に、何故かその選択をする自分の内面にあるものに気づかされたり、新しい自分を発見させてくれたりもする、そんな独自の論理を持っているようです。


このブログで銀河英雄伝説のことを書いた時に、私の子供の頃のイチオシは、ラインハルトとキルヒアイスだったのに、いつの間にか、シェーンコップとロイエンタールが贔屓になっていたwというくだりが出てくるけれど、これも無意識の論理に従った選択の結果ではないかと思っています。

分析してゆくと、ティーンだった頃の私が、ジークフリード・キルヒアイスに重ねて見ていたものと、相手がシェーンコップやロイエンタールの場合とでは、明らかに異なります。

タイトルは、ズバリ【銀河英雄伝説で大人になる⁉︎】ですが、私たちは無意識と意識的な選択の両方をくりかえして、大人になったり、自分自身を知ることになるのだと思います。

意識せずにやることを無意識と呼ぶのですが、こういう感じに分析してゆくと、なるほど、無意識には、それじたいの論理があるようです。

でも、こうやってじっくり考えてみると、無意識って……怖いですねぇ( ̄д ̄;)